イラっとした気持ち

昨日、とても印象的なことがありました。
しゅうちゃんに、とても素敵なことを教えてもらった気がします。

夕方、保育園から帰って、
夕飯の準備をする間、しゅうちゃんはアンパンマンを見てたね。
でも、まだ用意ができる前にアンパンマンがちょうど終わってしまって、
終わってしまったことと、お腹がすいたのにご飯が出てこないことで、火がついたように泣き始めました。
それはそれは大きな声で、声が枯れるほど泣き叫んで、空気がビリビリ言うくらい…

なんで急に、こんなに泣いてるのぉ…
あとちょっとでご飯出来るよ
そんなに泣いてたら、ママのお話聞こえないでしょ

それでもおさまらないあなたの泣き声に、ママはついに、やってしまいました。

「うるさ〜いっ‼︎」

急に怒鳴られたことで、一瞬ピタっと泣き止んだと思ったら、案の定、泣き声はさらに倍増。
あぁ…自業自得。。。

そこでママは、あなたの顔を見てこう言いました。
「そんなにしゅうちゃんが泣いてると、もうママも泣きたくなってきちゃった。悲しくなってきちゃった。」

そのママを見て、しゅうちゃんがしてくれたこと。

泣きじゃくりながら、しゃくりあげながらも、ママの頭を一生懸命「いい子、いい子」してくれたね。

ママは、一瞬で、心がほどけていくのがわかりました。
あったかい気持ちになって、思わず笑顔になりました。

こんなに小さくても、
こんなに泣きじゃくっていても、
こんなにママにイヤイヤをぶつけていても、
悲しそうなママを必死に何とかしようとしてくれてる。

そんなあなたの、ちっちゃくても、まっすぐで純粋な気持ちに、ママは教えられた気がします。

子どもってすごいな。
私を無条件に許し、受け入れ、必要としてくれる。
ママが大好きな気持ちをぶつけてくれる。

初めてでした。
初めて、こんな風に、伝えてもらった。
子どもの気持ちを、子どもから、直接、伝えてもらった。

そしてそのことで、私のイラっとした、あのささくれだった、自己嫌悪の、あの気持ちが救われた。
子どもとのやりとりの中で、解消できるんだ!そんな、奇跡のような発見。


でも、蓮だって本当は、私に伝えてくれていたのかもしれない。
いや、伝えてくれてただろう。
もっとわかってあげられてたらな。
もっと耳を傾けられていたらな。

でも、
「無条件に許し、受け入れ、必要としてくれてる」
きっと蓮だって、おんなじように、思っていてくれてる。
しゅうちゃんのおかげで、
そう信じようと思えました。
しゅうちゃん、ありがとう。

イラっとする気持ち

最近、しゅうちゃんがだんだんと
きかん坊になってきて、
思い通りにならなかったり、
上手に出来なかったりすると、
すぐにかんしゃくを起こして、泣き叫びます。
私もちょっと前までのように、
ただ穏やかに、微笑ましく、見守っているだけではいかなくなってきました。

しゅうちゃんに初めて「イラっと」した気持ちが湧いた時、
とても懐かしく感じて、自分でも思わず笑ってしまいました。

そのくらい、私は毎日、蓮に対してイライラしてたなぁー。

ご飯を食べてくれない、
手を口に入れる、
手をオムツに入れる、
興奮してなかなか寝ない、、、
そんなひとつひとつに、イライラして、怒って、時に本気で怒鳴って。
そんな私に、蓮は何も言い返さず、抵抗せず、たまにびっくりしてたね。

今、しゅうちゃんに「イラっ」とくるたびに、そんな蓮との一場面を一つずつ思い出したりして、
懐かしくもあり、「何でもっと優しくできなかったんだろ」って後悔もあり、「またおんなじことしてるな、私」って思ったり。 

ねぇ、れんちゃん。
ママとの日々は、大体がこんな感じの毎日だったよね。
特に最近は、こんなんばっかで、ママはちっとも優しくなかったね。
あなたに我慢ばっかりさせてしまってたなって。

でもね、そんなことも引っくるめて、蓮とママは、毎日何とかやってたんだ。

いいことばっかじゃなかった。
笑顔ばっかじゃなかった。
優しい愛情ばっかじゃなかった。
全てを受け入れたつもりでも、やっぱりこの先が不安だった。

そんな、弱い自分。醜い気持ち。未熟な考え。
そういうことも、蓮にいっぱいぶつけながら、毎日やってた。

そういう日々も、今はもう戻らない。
あの気持ちさえも、今は愛しい。

思い出はどんどん削ぎ落とされていくけれど、
私と蓮の思い出は、それだけじゃない。
全部、忘れたくない。

黄色いちょうちょ

今日、
保育園の帰り道、
いつもの公園で、黄色いちょうちょを見たね。

しゅうちゃんが先に気が付いて、
しゅうちゃんの視線が
ママの頭の上の方。
見上げたら、
黄色いちっちゃなちょうちょが
ヒラヒラ飛びながら、
お花にとまって、またヒラヒラ…

「黄色いちょうちょさん、いたね。
   かわいいね。」

そう言って、
ママはずーっと、目で追っていました。

本当に久しぶりにまた会えた。
春になって、
あったかくなってきて、
また会えると思ってたのに、
全然会えなかった。

でも、
今日やっと、
会えたね。

しゅうちゃんと一緒に
見つけたね。

お兄ちゃん、
あんな風に、自由に、のびのび、
きっと楽しくやってるよね。

久しぶり

れんちゃん
きょうは、れんちゃんのことをいっぱいいっぱい思い出して、
いろんなものをひっぱりだして、いろんなきもちをひっぱりだして、
ひさしぶりになみだをながしたよ。

れんちゃんに会いたいって、
声をだして泣きました。

れんちゃんが好きだったことを思い出したり、
好きだった歌をうたってみたり、
むかしのブログを読み返してみたり。

くしゃっとした笑顔や、
首をぶんぶん振って喜んでる姿や、
斜め上を見ながら、何か言ってるような表情や、
そんなひとつひとつを、ていねいに思い返していました。

そして、いつかこの記憶が、
このぬくもりが、
薄れていくのではないかと怖くなります。

時間が経つのが、こわいなぁ。

「去年の今頃は〜…」

「れんは〜してた頃だなぁ」

そうやって支えている気持ちが、

いつかやってくる。

「去年の今頃は〜…」

「れんちゃんはもういないのか…」って日々が。


ずっとずっと、あったかいまま、とっておけたらいいのに。

2016.5.9

「れんちゃんとあなたは、欠けたピースとピースがくっついたみたいに、2人でひとつだったんだね。」

そう、それはまるで、妊娠中に抱く感覚みたいに。

赤ちゃんと自分は、確かで強いもので繋がっていて、
どちらかになにかあれば、お互いに影響し合って、
だけど、お腹の中には間違いなく、自分とは別の個体が入っている、
一心同体ではなく、別々の個体。

蓮と私は、そんなつながりだった。

この子は私がいなくなったら絶対に生きていけない。
だから私がこの子を守るんだ。

そう思って、必死に守り育ててきた。

私が、蓮を助けているつもりだった。

でも、本当は気がついていた。
救われているのは、私の方だと。
蓮を必死に守り育てていることが、私の「生きがい」になり、
いつしか私は、自分の人生を考えることから逃げた。逃げる口実を得た。
「私にはこの子がいるから…」
そう言って、考えることを放棄し、挙句の果てには自分が何者かになった気さえしていた。
今まで、何者にもなれず、何になりたいかもわからずに悩んだ日々から、
「蓮くんのママ」というだけで、何者かになれた気がした。自分を誇らしく、強くなれた気がした。

そうやって、私はあの子に救われていたんだ。
助けている気で、助けられていたのは私の方。
与えられていたのは私の方だった。

あの小さな体で、太陽みたいな笑顔で、私の人生に光を当ててくれた。

蓮は身をもってそれに気付かせてくれ、今もなお、私に教えてくれている。

与えられたものの大きさに気がついた時、初めて「それを返していこう」と自然に思った。
他の誰かに、自分が受けたものを返していく。
これが、自然な流れ、生の営み、循環、くり返し、だ。

そうやって、これから先の時間を過ごしていきたい。

あの日、守れなかった自分。
守れなかったんじゃない。

少しだけ、そう思えた。

2016.4.22

「くり返し」

「前に進む」のが正しいと思っていた。
どんなに苦しいことがあっても、
ほんの少しずつでもいいから、
一歩ずつ一歩ずつ、前に進む。
そうやって、今までやってきた。
あの子だって、そうやって頑張ってきたと思う。

でも、今はちがう。
「前に」なんか、進めない。
少し進んだと思っても、一瞬で引き戻される。
また振り出しに戻る。
もう、どっちが「前」なのか、
どこへ向かうことが「進む」ことなのか、
全然わからない。

そんな中で、思ったこと。

「くり返し」でいい。
振り出しに戻って、また同じことをくり返す。
進むんじゃない、日々、くり返すんだ。
そうやって、毎日、毎月、毎年、ひとつずつ、同じことをくり返していきながら、気が付いたら年を重ねている。
それが、自然なことなのかもしれない。
それが、生と死、一生、命、
そういうことなのかな、と。

毎日、静かにくり返すことを、
毎年、この時期がきたらやることを、
そういうことを、ひとつずつ見つけて、増やしていこう。

毎日、花や植木に水をあげて、
寝る前に「ありがとう」を言って、
夏には蓮の花を見に行って、
秋にはイチョウを見に行って、お芋を収穫して。

そうやって、年を重ねていこう。
それが、あの子に次に会える日までの道のりだ。

前に進む必要なんてない。
くり返しなんだ。